すしの起源
すしの伝来と発展
すし(馴れずし)の起源は東南アジアといわれる。すしはもともと東南アジアの山地民族の間で行われていた魚の貯蔵法です。川魚の保存法として米などの穀類と炊いたものと一緒に漬け込み、米の発酵を利用して魚を保存した。この技術が中国→朝鮮半島→奈良時代に日本に伝わったといわれる。文献によると大宝2年(702年)施行の大宝令は今日全文は伝わらないが、その第一次改訂なる(養老令)が残っているし、令義解、令集解などの令文の注釈書などによっても原型をだいたい復元できる。その中の賦役令の中に、若し雑物を輪するならば・・・鰒鮓二、貽貝鮓三雑この一条はわが国のすしに関するいちばん古い文献だといえよう。
川魚が中心の頃
奈良時代に入って穀類と一緒にアユやフナを漬け込んだ熟れずしが庶民に食べられるようになった。琵琶湖周辺のフナの熟れずしがあるが塩つけにしたフナをご飯とともに1年くらい漬け込んだもので、ご飯は食べずフナだけ食べる。鎌倉時代は生成れが登場する。生成れは10日くらいで食べられ、素材はアユ・フナ・ナマズ・コイなどの川魚が中心でした。
酢がつくられる
安土桃山時代になると酢が作られました。これによって寿司が大きく変わり飯ずしが誕生します。(ご飯も食べる)箱寿司(押し寿司)もこの頃に誕生しました。素材も川魚に代わって小鯛やサバなどになりました。漬け込んだ魚は今まではおかずでしたが食事へと変わっていきました。
にぎり寿司
にぎりずしの誕生は、江戸時代の後期、文化年間(1818〜1830年)です。握ってその場で食べるというのを考案したのは花屋興兵衛と伝えられます。日本料理の技術である、酢の物(コハダ)や煮物(イカ・穴子)、焼き物(玉子)、蒸し物(アワビ)、刺身(マグロ・ヒラメ)などをすし飯と一緒に食べさせるということを思いついたと云われます。江戸前というとすしの代名詞と思われますが、もとはウナギを指していました。かって江戸城の前は海でしたがここを埋め立てた沼でウナギが沢山捕れこれをぶつ切りにして串にさして焼いて食べさせた店があったことから江戸城前のウナギと云われるようになったらしいです。
屋台中心の頃
江戸から明治にかけてのすしは、屋台が中心で、現在のように店を構えるようになったのはもっと後のことです。桶にすしダネを入れて、担いで町の中で売り歩くすし売りという商売もありました。冷蔵庫の無い時代のことなので殆どのすしダネは酢に漬けたり、煮たり、しょう油に漬けたりと手が加えられていました。これが今も伝わる酢じめをした光りものや煮イカや煮ハマグリまたはマグロのしょう油ずけの原型です。すし屋の調理場がつけ場と云われるのはこのように醤油に漬けたり酢に漬けたりする仕事が中心だったことの名残です。
カウンターへの変遷
戦後は、屋台で生ものを扱うことが禁止され、店の中に屋台を持ち込み店内で食べさせるようになりました。これは屋台の形式を店の中で再現したと言うことです。屋台の形式がカウンターになりました。戦中・戦後の食糧難の時は、すし屋も店を閉めなくてはならなかったのですが、米1合で巻物を含むすし10個と交換することが出来たといわれます。この時のすしが1貫の大きさの基準であり1人前の基準となっています。にぎりずしが誕生してから、わずか200年余。これからすしはどのように変化していくのでしょうか。